こんにちは、さすらいインコです。
今日もまた実用的でないのですが、妻の祖父から聞いた戦争の話を書きたいと思います。
自分自身、小さい頃に自分の祖父が亡くなってしまい、話を聞くことができませんでした。そのことは今でも後悔しています。
妻の祖父も90を超え、かなり老いてはいますが、まだ話を聞かせてもらう状態なので、当時のことを少し聞いてみました。
忘れたくないので、メモしておきます。
妻の祖父は9人兄弟で、6人いる男の兄弟のうち、祖父は四男だったそうです。
もともと体が強くなく、肺の病気を持っていたことから、徴兵検査は甲乙丙丁の順で丙で、三番目だったそうです。
病弱だったため徴兵されなかった祖父は、中国東北部や朝鮮の鉄道会社で庶務の仕事をしていたとのこと。
戦況がどんどん悪化していって、丙種合格だった祖父でさえ軍隊に入れられました。入隊は戦争が終わる1ヶ月前、1945年7月だったそうです。
戦争中、6人いる兄弟全員が結局戦争に取られ、うち2人が戦死したそうです。
曽祖母の夫は病気で当時既に亡くなっており、6人の息子は全員戦争に、3人の娘は嫁に出たため、曽祖母は9人も子供を産んだのに戦争中は一人ぼっちで暮らしていたそうです。
そして終戦。
当時の日本軍には中国からの兵隊を引き揚げる余力はなかったためか、祖父はアメリカの船に乗って中国から日本へ帰ってきたそうです。
戦争で使っていた船の甲板と船底に千人もの日本兵が乗って、帰ってきたそうです。日本へ帰ってくるのは4日間かかり、鹿児島の港に着いた祖父は嬉しくて涙が出たと言っていました。
祖父はその後結婚と離婚を2回繰り返し、2人目の奥さんに自分で建てた家をあげてしまったそうです。
自分はと言えば、70歳代半ばで老人ホームに自ら入り、20年以上もそこで暮らしています。
今は耳も遠くなり、本を読むことも難しいそうです。
テレビを見ることしかやることがない、と言っていた祖父を見ると、何ともやり切れない思いがしました。
妻の祖父なので、今まであまり話したことのなかった人でした。
でも、祖父が一生懸命生きてくれたからこそ、義理の父が生まれ、わたしの妻に会うことができたと思うと、大切にしなくてはいけないと心から思いました。
そういう思いがあって、もう耳がほとんど聞こえない祖父に、筆談ですが、
「具合が悪いところはない?」
「施設のご飯は美味しい?」
「お寿司を食べるのは好き?」
いろいろ話を聞いてみたくなりました。
その度に、少しずつではありますが、話してくれた祖父。
別れ際に、妻に対してよりも自分に対して、固い握手をしてくれたのが忘れられません。その時は理由がよくわかりませんでしたが、話を聞いてあげたのが嬉しかったのだと思います。
妻はこれまでのいろいろな経緯があり、話がしづらいようで、わたしの方が話しやすいようです。
戦争の戦死者の数や、敗戦の歴史などは学校で勉強したり、テレビで見たりして自分なりにその凄惨さは理解していたつもりでした。
でも、実際に自分の身近にいる人から、直接話を聞くというのは自分の受け止め方が全く違いました。
自分と同じように両親がいて、兄弟がいて、普通に生活していた人が戦争に行ってどんな辛い思いをしたか。
直接話を聞くことで、「自分ごと」として考えることができました。
祖父は遠くに住んでいるのでなかなか会えませんが、また正月に帰省した時に、挨拶したいと思います。
それでは、また明日。